Vol.12 ホルン奏者
上原 宏(うえはら ひろし)氏
profile
●東京佼成ウインドオーケストラ楽団員
●桐朋学園大学音楽学部教授
●玉川大学吹奏楽団顧問
●昭和音楽大学・同短期大学講師
●武蔵野市民交響楽団アンサンブル・ダ・カーポ常任指揮者
●東芝府中吹奏楽団音楽監督
●日本ホルン協会常任理事
小学校のクラブで出会った管楽器
私が音楽の道に進む最初のきっかけとなったのは、幼稚園のころヤマハの音楽教室に通い始めたことです。特に音楽一家というわけではなかったのですが、「一家に一台ピアノ」というのが当時のちょっとした流行りで、小学校に入ってからも個人でピアノのレッスンを受けるようになりました。自分の家にもアップライトのピアノがあったのですが、調律師の方が譜面台の裏の蓋を外して調律しているのを見て興味を持ち、練習の時に自分も蓋を外して、音を出しながら弦の様子を観察したり、わざと弦を抑えて鍵盤をたたいてみたり、いろいろと遊んでいました。
吹奏楽に出会ったのは、小学校4年生くらいのときです。新しく小学校に赴任された先生が吹奏楽部を作って、それを知った友人から「面白そうだから一緒に入ろう」と誘われたんです。小学校では最初にトランペット、その次にユーフォニアム、そしてさらにアルトホルンを担当しました。吹奏楽と言うよりも器楽クラブといった感じの規模でしたが、ピアノとはまた違う管楽器の音に惹かれました。それから、大勢で合わせて音楽を作る楽しさを知ったのもそのクラブがきっかけですね。
音楽の道に進みたい
という気持ちが芽生えた中学時代
中学校は特に受験をせずに地元の公立学校に進み、そこでも吹奏楽部に入ってフレンチホルンやメロフォンを吹いていました。コンクールには出ていなかったのですが、すごくこだわりを持ったトランペット奏者でもある顧問の先生が指導をしてくれて、いろいろと専門的なことを学びました。
それから当時、いわゆる「クラシックオタク」の友人がいて、その子の自宅に通っていつも一緒にレコードを聴いていました。オーケストラの曲など、それまであまり聴いたことがなかった演奏に浸る毎日です。その友人は知識も豊富で聞き方もすごくマニアックでした。チャイコフスキーのこの曲の面白いところはね、とか、ここの場所はピアニッシモからいきなりフォルテッシッシモになるんだよなんて言いながら、その場所にレコードの針を落として聴かせてくれるんです。その友人から、曲の聴き方や音楽の面白さなど、たくさんのことを教わりました。
中学生の後半くらいになると、自分でもオーケストラの演奏を耳で聴いてコピーしてホルンで真似てみたり、スコアを買ってきてホルンが活躍するパッセージを片っ端から練習したりしていました。そのころから、だんだんと音楽の道に進みたいという気持ちが強くなっていったような気がします。
音楽高校への進学を諦め、普通高校へ
高校受験を控えた時期、音楽高校に進学したいと考えはじめ、進路についてピアノの先生に相談をしました。当時は確か、管楽器で入れる音楽高校はそれほど選択肢がなく、音楽高校を受験するならピアノかなと思ったんです。私の希望を聞いた先生は、「音楽で男性が食べていくのは相当大変なことだから、高校から退路を断ってそちらに行くと大成しなかったときに困ってしまいますよ」とおっしゃいました。先生から普通高校に行くよう勧められ、音楽高校への進学は諦めて公立の普通高校に進学しました。
当時、私が住んでいた地域の公立高校は、今のようにいろいろと行きたい学校を選ぶことができず、受験して合格したら二つの学校のどちらかに強制的に割り振られる仕組みでした。実は、私が割り振られた学校にはたまたま吹奏楽部があり、もう一つの学校にはありませんでした。吹奏楽部がない方の高校に割り振られていたら、人生が変わっていたかもしれませんね。
部活を立て直そうと仲間と奮起
1年生から指揮
進学した高校に吹奏楽部はあったものの、理想とは異なった活動内容でした。コンクールなどにも出場しておらず、そもそも大人の指導者がいない部活動でした。顧問の先生はいらっしゃいましたが、管理を主にされる先生でした。部員だけでポップスを中心に演奏している部活でした。
中学時代は厳しい先生のもと一生懸命に練習をしてきたので、私はその様子に一念発起して。同級生とこの部活を立て直そうと考え、1年生のときから指揮棒を握り、吹奏楽部の指揮をするようになりました。いきなり定期演奏会の日程を決めホールの予約をとり、全て吹奏楽のオリジナル曲でプログラムを組み立てて、部活動の運営を変えていきました。
もちろん最初は抵抗や反対もあり、辞めてしまった方もいました。部活としてちゃんと活動できるようになるまでは大変でしたが、それでも音楽をやりたいと気持ちを同じくする人たちが残ってくれて、みんなで試行錯誤しながらちょっとずつ部活を作り上げていきました。
結果的に、指揮棒を持つ私が部を指導するような形になり、自分の練習は部活の活動時間外にやっていました。朝早く起きて練習したり、急いでお弁当を食べて昼の時間を使ったり、それから部活が終わってから近所の大きな公園に行ってよく練習したりしていましたね。
場所の選定から自分たちで…
生徒で運営した合宿
その吹奏楽部では、もちろん合宿もありました。1年生の時の合宿はあまり記憶がなかったのですがどうやら行っていなかった様です。自分たちで運営するようになった2年生からは、きちんと練習して上達できる合宿をしようと、張り切りました。
場所選びから自分たちで行い、OBの先輩方に助けていただきながらいろいろと探して、2年生の時は奥多摩の鳩ノ巣、3年生の時は富士五湖にある合宿所を選びました。三泊四日の合宿での練習スケジュールを自分たちで考えたりもしました。朝は体操をして、朝食を食べたら音出しをして、そこからはもうひたすら練習です。昼食を食べて合奏、夕食を食べて合奏、合わないところがあるとそこを集中的に繰り返していました。
3年生の時の部員数は大体45人くらいだったでしょうか、もちろん楽器を初めて触ったという生徒もいましたし、自分も指揮棒を持って指導していたとはいえ、当時は専門的なことなんて全くわかっていません。教えてくれるプロの指導者もいない中で、高校生なりにみんな必死で、がむしゃらに練習して、なんとか少しずつ曲が出来上がってくる、という感じでした。
不思議なエネルギーに満ち
がむしゃらに練習した日々
今振り返ってみても、自分たちで考えて曲を仕上げていく、音楽を手弁当で作っていくのはすごく楽しかったですね。現在はプロになり、演奏していて「ここが駄目で、こうすればこれぐらい良くなる」というのが全部見えているんです。でも、当時はもちろん、そんなことは全く把握できていません。自分たちにどれくらい力があるのか、どこまで上達できるのか、そもそも曲を完成させられるのか…先に何があるのかが全くわからない状況の中で、とにかく良くしたい、うまくなりたいから頑張って練習しようという、不思議な変なエネルギーに満ちていました。今考えると全く合理的ではないのですが、若いからこそ持ち得るそのエネルギーを、押さえつけられることなく爆発させられる。自分たちの力を発揮して突き進んでいく。音楽的には間違っていることもたくさんあったと思うのですが、高校生のときにあの合宿を経験できたことは、自分にとってすごく大きな糧になっていると思います。
合宿での出来事は、朝起きてから夜眠るまで、練習以外のことも一つ一つがすごく印象に残っています。特に思い出深いのは、仲間と本音で語り合ったことですね。音楽や部活のことはもちろん、恋愛相談をしたり、悩みを打ち明けあったり、枕を並べて夜通し話をしたことを、今でも覚えています。それから、合宿は学校での普段の部活動と違って寝食をともにするので、友人や部員たちの普段とは異なる一面を見ることができます。練習だけだとわからない、こういう部分もあるんだなとか、実はこんな顔も持っているんだとか、それまで気が付かなかった部分に気が付くこともありました。練習で意見が対立することもありましたが、そういう部分も含めて、部員同士の絆が深くなった気がします。
当時の部活動のメンバーとは、同級生だけではなく後輩も含めて、今でも年に数回集まって食事をする仲なんです。高校時代の思い出や合宿の時の話など、よく飲みながら楽しく語りあっています。
強豪校だけではなく
全国の吹奏楽部の生徒たちに合宿を経験させてあげたい
以前は、日本全国の吹奏楽部が当たり前のように盛んに合宿をしていましたが、コロナ禍以降、一時期全くと言って良いほど合宿が無くなってしまった様に思います。長年、中学、高校、大学などで指導もしていますが、そこでも合宿が未だに復活していない学校がほとんどです。吹奏楽が盛んな一部の学校では戻りつつあるところもある様ですが、一般的にはそのままなくなってしまったところが多いのではないでしょうか。
吹奏楽は多人数で一つのものを作り上げるので、お互いのコミュニケーションがすごく大切です。プロの楽団だと、多少メンバーの入れ替えがあっても、基本的には何年も同じ顔ぶれで演奏するので気心が知れていますが、高校の場合は、毎年3年生が卒業して新しく1年生が入ってきます。その中で一つの音楽を作っていくためには、ぐっと人間同士の距離が縮まる合宿を、生徒たちにもぜひ経験してほしいですね。吹奏楽の合宿は、何もコンクール常連の強豪校だけのものではありません。コンクールなどには無縁で、音楽を楽しんでいるような吹奏楽部の生徒たちにも、今の時期だからこそできる経験をさせてあげたいと心から思っています。
コロナ禍以前は、部活動の指導で年間に8つぐらいいろいろな学校の合宿をはしごしていました。実は私は花火師の資格を持っていて、指導に行った合宿では最後の夜に、よく「音楽花火」を打ち上げていました。音楽花火というのは、コンピュータのソフトウェアを使って花火を打ち上げ、音楽に合わせてちょうど良いタイミングでドン、と花火が開くように設定して演出したものです。
一般的には、花火ありきであとから音楽を付けて打ち上げられている花火大会も多いのですが、私は音楽家なので音楽にもとことんこだわり、花火がなくても人を魅了できる曲を選曲する様にしています。いかにその曲と雰囲気の合った花火を打ち上げるかが腕の見せ所です。音楽には物語があるので、それを花火を使ってどう表現するか。コンピュータを使って30分の1秒単位でプログラムを組んで、全体を構成しています。花火も工場に発注して作ってもらって、思い出に残る合宿にしてあげたい、そんな思いを込めて、約半年くらいかけて準備をしていました。
未来に音楽を残していくために、自分に何ができるか
自分は来年59歳、佼成ウインドの定年も近づいてきました。今後は、自分自身のプロとしての活動ももちろんですが、音楽の素晴らしさを未来に伝えていく、そんな気持ちで音楽に携わっていきたいと思っています。今、合宿もそうですが部活動自体が縮小しています。コンクールの審査に行っても人数の少ない部がすごく増えてきました。先日行った全国大会でも、20人台、10人台という学校もありました。
日本においては、学校の吹奏楽部という存在が音楽を広げるのにすごく大きな役割を担ってきたと思います。やはり衰退してほしくないですし、素晴らしい文化の一つとして残していきたいと考えています。今後盛り上げていくためには何が必要か、そのために自分にできることは何か、そんなことを考えながら、今後も音楽の素晴らしさを伝えていければと思います。
学生時代の思い出、大好きな花火の話…楽しそうに語るその目は、まるで少年のようにキラキラと輝いていた。1年生のときから自ら指導役になって部活を立て直した行動力、プロの音楽家でありながら大人になって花火師の資格を取るチャレンジ精神で、きっと音楽の道も果敢に切り開いてきたのだろうと想像される。より良い未来を願う想いは、きっと若者たちにも届いていることだろう。