Osaka Shion Wind Orchestra Vol.2 バスクラリネット奏者

仙䑓 玲(せんだい れい)氏 

profile
Osaka Shion Wind Orchestra(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)メンバー
●大阪府立淀川工科高等学校を経て、バスクラリネット専攻生として大阪音楽大学に入学し、卒業。卒業演奏会に選出。摂津音楽祭リトルカメリア賞、関西21世紀協会賞を受賞し、日本センチュリー交響楽団とバスクラリネット協奏曲を共演。ジャン=マルク・ヴォルタ氏のマスタークラスを受講。バスクラリネットをはじめ低音特殊管を中村真美氏に師事。

はじめは
「バスクラリネットは嫌だ」
と思っていた

もともと自宅に、母が趣味で弾いていたアップライトのピアノがあり、それがきっかけで音楽に興味を持つようになりました。母に楽譜の読み方を教わって弾いているうちに、どんどんピアノが好きになり、自分なりに練習したり、いろいろな音楽を聴いたり。特にどこかへ習いに行くわけでもなく、小学生の頃は独学で合唱の伴走などをしていました。

ある時、地域の中学校の吹奏楽部が、私の小学校で演奏する機会があり、音楽好きだった私は、興味を持って聴きに行きました。その演奏会で私が一目ぼれしたのは、バスクラリネットではなく、サックス。自分もサックスを吹きたいと思い、中学校に入学して、迷わず吹奏楽部に入部しました。

意気揚々と入部したものの、サックスは人気が高く、私のサックスパートになりたいという希望は叶いませんでした。いつかサックスパートに異動できるかも…と未練を残しつつクラリネットを担当することになったのですが、そのときもバスクラリネットではありませんでした。当時の私は、なぜだか「バスクラリネットは嫌だ」とずっと思っていました。いろいろな楽器がある中で、形や足の間に挟むスタイルなど、見た目がなんだか好きではなかったんです。

そんな私がバスクラリネットを演奏することになったきっかけは、中学校1年生の夏のコンクールです。コンクールに向けて新たにバスクラリネットの担当を決める必要があり、私を含むクラリネットパートの生徒が先生の部屋に集められました。そこで3年生の先輩が、「バスクラリネットはこんな音がします」と言って聞かせてくれた音色が、とても素敵でした。渋くて、深くて、あたたかくて。「めっちゃええ音するなあ」と思いました。

あんなに嫌だったバスクラリネットでしたが、「私はこの楽器を吹きたいかもしれない」と考え直し、立候補をしました。それが、私のバスクラリネット人生のスタートです。

名門・淀工の吹奏楽部へ
入部直後の練習見学で、大きな衝撃を受けた

高校は、母の知り合いのすすめで、全日本吹奏楽コンクール常連、しかも何度も金賞を取っている吹奏楽の名門・大阪府立淀川工科高校・通称「淀工」に進学しました。中学時代は全く勉強をしていなかったのですが、どうしても淀工で吹奏楽をやりたいと思い、あのときは必死に勉強しました(笑)。

中学校の3年間は、心のどこかにサックスへの未練がありましたが、強豪といわれる淀工の吹奏楽部に入ったからには、3年間続けてきたバスクラリネットで勝負した方がいいと思い、高校では最初からバスクラリネットを担当しました。

顧問は、吹奏楽の名指導者として知られ、メディアにも何度も取り上げられている、丸谷明夫先生です。普段は「大阪の面白いおっちゃん」という感じですが、いい加減な練習や真剣味のない演奏は許さない先生でした。私たちが集中していなかったり、だらけていたりすると、先生はそうした雰囲気をすぐに感じ取ります。私たちはよく、「お前ら、外に出て走ってこい!気合を入れ直せ!」と叱られていました。

入部直後の高校1年生のとき、先輩の練習を見学した時のことは、今でも忘れられません。その時、先輩たちは学校の近くにあった市民会館で、「ダフニスとクロエ」という曲を練習していました。会場に足を踏み入れた瞬間、私はピリピリと張りつめた異様な雰囲気を感じました。夏場だったため冷房もついていましたが、それとは別の、冷たく凍った「ぞわっ」とするような空気。吹奏楽の最高レベルの難曲に挑む先輩たちの凄み、演奏に向かう姿勢、そうしたものがその会場に渦巻き、なんとも言えない空気を生み出していました。大きな衝撃を受けた私の耳には、この曲の特徴の一つでもある連符が、まるで地を這っているかのように聞こえていました。

ああ、私が入部したのはこんなにすごいところだったんだ、これから3年間、私はここで過ごすんだ━━。そう思うと、ある意味「怖い」とさえ感じたことを覚えています。

合宿だからこそ得られた
「音楽で会話する」感覚

部活では、毎年夏に合宿もありました。兵庫県と鳥取県の境にある氷ノ山にある施設に行き、先生と部員のみんなと一緒に2泊3日を過ごしました。

合宿では、コンクールに向けて、個人練習を挟みながら、合奏を繰り返します。また、最終日に地域の方向けのコンサートも開いていたので、その練習も行っていました。朝早くから夜遅くまで練習し、さらに合間にミーティングを繰り返して……合宿は本当にしんどかったです。普段も厳しいのですが、合宿は24時間一緒に過ごすことができるので、ついつい終わりなく続けてしまいます。特にミーティングは毎回長引き、夜な夜な話し合う、ということもしばしばありました。どちらかというと、演奏のテクニックなどよりも、練習に向き合う姿勢とか、考え方とか、そうした問題について話し合うことが多かったように思います。

練習のほかに、合宿には「部員全員の名前を覚える」というもう1つの目的がありました。当時の部員の数は、およそ200人。一人ひとりの顔写真を撮り、名前を書いて、合宿中はそれらを壁に貼り出していましたが、みんなの顔と名前を一致させるのは大変です。それでも、先生は1年生から3年生まで、みんなの名前を覚えていました。毎年、数多くの部員が入部する中で、それだけでも本当にすごいことだと思います。

合宿では当然ながら、一日中同じ場所で、濃密な時間を部員のみんなと過ごします。そうすることで、結果として、演奏する上での関係性も深めることができたように思います。「彼はこういう吹き方をするんだ」と発見があったり、「合宿に来てからここがぐっとうまくなったぞ」と成長を感じたりして、相手の音楽がわかるようになると、だんだんと音楽でコミュニケーションをとれるようになってきます。単に親しくなるだけではなく、それが音を合わせたり、いい音楽を一緒に作り上げることにつながっていくんです。

音楽で会話するというのはどういうことなのか━━。それを肌で感じ、理解するというのは、プロとして演奏していく上でも非常に大事なことです。高校3年間の合宿の経験が、今に生きているな、と感じています。

一人ひとりを、厳しくも
あたたかく見守ってくれた恩師、丸谷先生

丸谷先生の指導はとても厳しく、数え切れないほど、何度も大声で叱られました。それでも、私たち部員はみんな、先生を愛し、尊敬していたと思います。

先生が指摘してくれたのは、音楽のことだけではなく、たくさんの「人として大事なこと」です。淀工の生徒たちの多くは、大学に進学せず、卒業後、すぐに働き始めます。先生は、まだ右も左もわからない高校生の私たちを、卒業までに社会に出ても通用するような人間に育てないといけない、と考えていたと思います。そして、私たち部員も、そうした先生の思いを理解していました。

また、部活動は厳しく大変でしたが、先生は私たち生徒の何倍も大変な毎日だったと思います。私たち部員は「合奏ノート」という、先生とコミュニケーションを取るノートに、その日の練習内容や気が付いたこと、悩んでいることなどを書き込んでいました。先生は、毎日朝から夜まで私たちの練習を見ているにも関わらず、どこかの時間で200人の部員のノート全てに目を通し、返事を書いてくれました。

時には、文字だかなんだかわからない、先生独自の走り書きのようなものが書かれているときもありました。それは、先生が何か直接伝えたいことがあるときに書いてくれる「話しにおいで」というサイン。その走り書きがあっても話しに行かないと、「お前、あれ書いている意味わかったんか、わからないのに、なんでけえへんねん!」と、余計に怒られました(笑)。1年生から3年生まで、本当に厳しくあたたかく、部員一人ひとりをしっかりと見てくれる先生でした。

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Osaka Shionに入り、プロの道へ
若い人に伝えたい先生の教え

高校卒業後、バスクラリネット専攻生として大阪音楽大学に進学し、そして大学を卒業した後は、しばらくの間、フリーランスとして活動していました。フリーランス時代は、年に1回ほど演奏会などで丸谷先生とご一緒する機会があり、そのたびに先生は「お前、よう頑張ってんなぁ」とやさしく声をかけてくれました。

毎年何百人と生徒を見ているのに、卒業しても覚えていてくれる、しかも、高校生のときはずっと怒られてばかりだった丸谷先生から褒めてもらえる……先生のその言葉を聞くだけで、その1年間、頑張ろうという気持ちになれました。

フリーとして6年ほどたったころ、Osaka Shionでバスクラリネットのオーディションがありました。子どものころからずっとあこがれてきた、Osaka Shion。しかもずっと専門で続けてきた、バスクラリネットのポジションです。私はこの機会を自分にとっての大きな分岐点と捉え、「オーディションに受かったら音楽を続ける、受からなかったらやめよう」という気持ちで挑戦しました。

無事に合格したときは、本当にうれしかったです。ただ、私が入団したのは、先生が亡くなった翌年。直接先生にお伝えすることはできませんでした。恐らく、先生はすごく喜んでくれたはずなので、少し残念ですが、今も見守ってくれているな、と感じています。

先生にご指導いただいたこと、仲間との合宿、大変だった練習……高校の部活動では、音楽のことだけではなく、生きていく上で大切なことを本当にたくさん教えていただいたと感じています。その一つひとつが、現在につながっています。

今、自分も指導する立場になりました。先生の教えを思い出しながら、若いみなさんに、私が学んだことを伝えていきたいと思います。