Vol.33 打楽器奏者

落合 空千(おちあい そらゆき)氏 

profile
Osaka Shion Wind Orchestra(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)メンバー
●大阪府茨木市出身。
相愛大学音楽学部音楽学科管弦打楽器専攻首席卒業、同大学院音楽研究科音楽専攻修了。
第35回関西打楽器協会新人演奏会に出演しヤマハ賞を受賞。
第62回関西新人演奏会に出演。第37回日本管打楽器コンクール打楽器部門3位入賞。
これまで、中村拓美、中谷満、高橋篤史、堀内吉昌、宮本妥子、吉原すみれ、種谷睦子の各氏に師事。

中学校で吹奏楽部に入部
母の勧めで打楽器担当に

僕は母の勧めで、3歳の時からピアノを習っていました。母は音楽が好きで、ずっとやりたかった歌を大人になってから始めたのですが、自分がギターもピアノも弾けなかったことから、楽器ができるようにと僕にピアノを習わせたいと考えたそうです。

打楽器を始めたのも、母の影響です。中学校に入学し、卓球部と吹奏楽部とどちらにしようか迷い、最終的に吹奏楽部に入りました。僕が通っていた中学校は、「太陽の塔」で有名な万博記念公園の近くにあり、卓球部に入ると土日に公園の外周を走らないといけなかったんです。それがいやで、吹奏楽部を選びました。

入部後に楽器を選択する際、木管楽器などはやったことがないし、どうしようかなと思っていたら、母が「あんた、ドラムくらいしかできへんやろ」と。子どものころに参加した音楽発表会でドラムを経験していたこともあり、打楽器を希望しました。

その部は、府大会に出場したこともあり、地区の中では熱心に活動をしていました。僕はスネアやティンパニなどを担当することが多く、一生懸命、毎日練習に参加していました。打楽器が楽しくて仕方がなかったというよりは、「言われたことはしっかりとやろう」と考える性格なので、目の前のことに真面目に取り組んでいたという感じですね。

進路を決める際は、公立高校でしっかりとした吹奏楽部があるところ、勉強も自分なりに頑張れるところ……と探して、大阪府立市岡高等学校に入学しました。

高校でも吹奏楽部に入部
夏は毎年3泊4日の合宿で兵庫県へ

高校でも吹奏楽部に入部し、同じく打楽器を担当することになりました。市岡高校の吹奏楽部は歴史があり、部員も100名ほどいる大きな部でした。大阪府にはたくさんの強豪校がありましたが、当時、3年連続して全国大会に出場した学校は翌年のコンクールに出場できないという、いわゆる「3出」と呼ばれる制度がありました。僕の学校も、その制度によって空いた枠になんとか滑り込むといった感じで、「関西大会に行けるように頑張ろう!」と頑張っていました。

夏休みには、毎年合宿にも行きました。

「揖保乃糸」の素麺で有名な、兵庫県を流れる揖保川の近くにある宿舎に、3泊4日くらいの日程で泊まっていたと思います。起床は朝の6時半ごろ、ラジオ体操をして、朝食を食べて、8時半ぐらいから練習を開始します。お昼休憩を挟んでまた練習、晩御飯を食べてまた練習。

100人以上の部員がいるので、全員がコンクールに出られるわけではありません。当時はコンクールに出る部員を「心チーム」、それ以外の部員を「響チーム」という二つのチームに分け、心チームは府大会前の集中練習、響チームは8月のコンサートに向けた練習という位置づけで、朝から晩までみっちり演奏する合宿でした。

初めての「音楽の探求」
世界観を大きく変えた高校2年生の合宿

3回参加した中で最も印象に残っているのは、2年生のときに参加した合宿です。2年生になって心チームとなった僕は、初めてコンクールメンバーとして、3泊4日の間、音楽にとことん向き合いました。この合宿が、僕の音楽に対する世界観を大きく変えたように思います。

きっかけとなったのは、合宿で練習していた、自由曲の演目である「アルプス交響曲」という曲の、日の出のシーンです。この曲は、夜明け前から山に登り、下山するまでを表したもので、途中で出会う自然の様子などが描写されています。

日の出のシーンは音階になっていて、最初が一番高い音。そこから三段構えでだんだん音程が下がっていきます。僕が担当した楽器はシンバルで、音階が下がるごとにシンバルを鳴らし、全部で三回鳴らすことになっていました。

楽譜上は、その3つの音は同じ音符で書かれていて、強弱記号も全て同じフォルテシモです。最初は楽譜に沿って、同じ音を出していたのですが、合宿に来ていた外部講師の打楽器の先生から、「太陽がまさに出た瞬間と、日が昇ったあとでは、感じる日の強さは同じではないよね。その違いが出る方がいいんじゃない?」とアドバイスをいただいたんです。

確かに言われてみると、太陽が出た瞬間は急に光がパッと差しますが、太陽が昇っていくにつれて、だんだん明るく、暖かくなり、日の光の感じ方が変わってきます。「自然の雄大さをだんだんと感じられるようにした方が、曲に合っているし、音楽で表現する景色もその方がいいのでは」と言われ、そこから僕の試行錯誤が始まりました。

どうやったら音に色が出るのか。シンバルをあてる角度を変えてみたり、合わせる長さを調節したり、それから、持ち方もいろいろと試しました。手革の中に小指を入れる場合と入れない場合とで、革に伝わる張力が変わり、音にも変化が生まれます。ギュッと引っ張った時の音と、ゆとりを持たせた時の音。腕で鳴らした方がいいのか、下半身から力を込めた方がいいのか。

一つずつ試して、「こうじゃないな、どれかな」と繰り返し考えて。どんな工夫をしたら音に自分が望む色を出せるのか、初めて「音楽の探求」をしたんです。

今となっては当たり前のことですが、それまで、高校生だった僕は、楽譜に沿って言われたとおりに音を出すことしかやっていなかったように思います。そういう意味で、その合宿は僕にとって、初めて「音楽を演奏する」とはどういうことなのかに気が付いた場所でした。

それから、副次的な効果ですが、そうやって何度も何度も音を探したことで、結果として基礎練習を繰り返すことにつながり、演奏の技術も大きく向上しました。

本当にいろいろな学びがあり、充実した合宿だったと思います。

目の前のことに一生懸命に取り組んでいく中で
プロへの道も開けていった

音楽の道に進もうと決めたのは、高校3年生の4月のことです。吹奏楽部で指導を受けていたプロの方から、「大学どうすんねん」と聞かれ、音大への進学を勧められたことが大きな転機になりました。最初は、自分にプロは無理だと思い、教師になろうと考えていたのですが、勧められて「自分にもできるかもしれない」と。結局その方から推薦をいただけることになり、相愛大学音楽学部に進学しました。

学部生時代、それから大学院生時代と、何度かプロの楽団に呼んでいただく機会があり、大学院2年生のときにオーディションを受け、オオサカ・シオンに入団しました。

僕としては、プロを目指してあれこれ努力して……というよりは、周りの方に背中を押してもらいながら、道が開けていった感じです。振り返ると、自分なりに目の前のことに一生懸命に取り組んでいく中で、母やお世話になった先生など、自分を支えてくれた人たちが、今に至る道へ導いてくれたような気がします。

オオサカ・シオンに入って約四年が経ちますが、最初のころはわからないことだらけで、常に壁にぶつかっている、という感覚でした。

いろいろと大変だったことはありますが、特に苦労したのは、歴史あるオオサカ・シオンとして、ある意味「出来上がっている」音楽に入っていくことです。

打楽器奏者は、リズムやテンポを作り、演奏を引っ張っていく役割もあります。しかし、オオサカ・シオンには、20年、30年とずっとここでやっている奏者がいて、楽団として培ってきた音楽がある。入団したてのころは、まだ信頼を得られていないこともあり、「こういう感じでやってほしい」「そこは引っ張りすぎ」と、周囲からいろいろな意見をもらいました。一方で、みんなに合わせるだけだと打楽器奏者としての役割が果たせない。楽団の一員としてどうすれば目指す音楽を奏でられるのか……試行錯誤して、少しずつオオサカ・シオンの音楽を体得していった感じです。

一つの楽団でずっとやっていくということは、そこの血となり肉となり、楽団としての音楽を自分のものにしないといけないんだと痛感しました。

合宿で得た経験は
プロになった今に生きる貴重な財産

今でも苦労することはありますが、壁にぶつかりながらもプロとして活動していく上で、高校2年生の合宿で得た経験が、そのまま今に生きていると感じています。

音に対するアプローチを試行錯誤すること、多角的な視点から音色を探求することは、プロになった今でも、とても大切です。あの合宿で学んだことは、自分にとって貴重な財産となっています。

ただし、合宿のときと比べて、そうしたことに費やせる時間は圧倒的に少なくなっています。泊まり込んで時間をかけ、一日中自分の音楽と向き合うことができるというのは、今考えると、ある意味とても幸せなことですね。

中高生の皆さんにお伝えしたいのは、目の前にあることを一生懸命にやる、ということです。僕の場合は今振り返ると、打楽器を始めたときも、大学に進学したときも、プロになったときも、とにかく必死に目の前のことにくらいついているうちに、周囲の人たちがアドバイスをくれて、自然と道が開けていきました。若いうちは、将来のことが不安になってしまうこともあるかもしれません。でも、一つひとつのことに誠実に一生懸命に取り組んでいれば、きっと誰かがどこかで見ていてくれるはずです。

僕が今、プロとして目指しているのは、毎回、お客さまに感動していただける演奏ができるようになることです。全員でなくてもいいんです。自分が納得できるレベルでいつも演奏し、そしてそれがお客さまに伝わり、「本当に良かった」と思ってくれる人が一人でもいてくれたら、と思っています。

そこに向けて僕自身も、「目の前に一生懸命」という言葉を胸に、頑張っていきたいと思います。